この小説はフィクションだ。なぜならハジメはイズミを深く傷つけ、彼女の表情を奪うことから始まったから。
「傷ついた分だけ優しくなれる」
そんなのは、嘘だ。
なぜなら私たちは傷つき、奪われることによって初めて誰かを傷つけ、何かを奪うことができるから。愛されることを体験することで、初めて誰かを愛することができるようになるのと同様に。
ハジメはイズミを傷つけた後に島本さんに傷つけられる点において、この小説はフィクションそのものである。
しかし現実世界を生きる我々とフィクションを生きるハジメに共通なものもある。それはつまり、「我々は正しく傷つくことができない」ということである。
そう、これは映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中、家福が溢す台詞でもある。「僕は正しく傷つくべきだった。」
我々は正しく傷つくことができないから、後に誰かを傷つけてしまう。自分が正しく傷つくために、誰かを傷つけるのである。そうやって自分の人生を物語ることができる。
私は思うのだが、正しく傷つくとは死を意味する、と。おそらく、我々は皆正しく傷つくことができない。これは平等だ。正当防衛。12歳のハジメは、拒まれることを恐れて島本さんのもとへ足を運ぶことを辞めた。有紀子は、自殺を試みるが失敗する。そして彼らのその行為は不完全に自分を傷つけ、そして本人の知らないところで誰かを傷つけてもいる。これはハジメだけが持つ傾向ではなく、人間一般の傾向なのではないだろうか。
そう、ハジメは可哀想な人間だ。人間一般の傾向を己だけの傾向だと思っているから。
我々がこの現実世界で直観している完全な傷は、フィクションでしか表現できない。イズミや島本さんの傷。
この世界はフィクションではない。我々は生きていかなければならない。太陽はあいもかわらず東から昇り西へと沈む。
半分死んでしまった島本さんは、フィクションの産物である。だから我々はこの世界で、「僕は僕の世界を捨て君を取ることはできないけど、CDは大切にしておくね。」と言うしかない。
ハジメと有紀子は、互いに不完全に傷つき傷つけ合っていく。フィクションではない世界で生きていくためにはそうする他ない。
私たちは自分の記憶を物語化することで生きていくことができる。
ちゃんちゃん!連続で小説の感想。
「なつきさんの底抜けのポップさは狂気だと思います。」と嘆きつつこの小説を渡してくる後輩を持ち、大学生活悔い無し!