2023年の8月1日は雨が降った。

 

 

7時に家を発ち19時頃帰宅する。そのときのみ外の空気を吸う生活では、日々の天気や気温から受ける影響は小さい。新生活になって変化したことの一つだ。

 

毎年ただひたすらに強い日差しの降る8月1日が、心底憎かった。

 

今は好きでも嫌いでもなく普通の日。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の出来事や考えていること。

 

例えば、我々は完全なものよりも不完全なものに心を惹かれることがある。あるいは、完全だと思ってた人の不完全さを垣間見たときに心を奪われる。

 

 

 

問題なのは、その不完全さの程度や質について。

 

そもそも不完全さとは何なのか?

 

 

 

 

 

 

ミロのヴィーナスは美術作品だから美しいのか?

生を全うしている両腕のない人を見て、我々は美しいと感じるのか?

 

 

 

我々はどこまでの不完全さに心を奪われるのか?

 

 

悩みを抱えていたりそれに対して葛藤を抱いている人間を美しいと感じることにおいて、その不完全さはどこまでが許容されるのか。

どれほどの不完全さなら、健全なのか。

 

 

 

わからないことが今も沢山ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

国境の南、太陽の西

この小説はフィクションだ。なぜならハジメはイズミを深く傷つけ、彼女の表情を奪うことから始まったから。

 

 

 

 

 

「傷ついた分だけ優しくなれる」

 

 

そんなのは、嘘だ。

 

 

 

なぜなら私たちは傷つき、奪われることによって初めて誰かを傷つけ、何かを奪うことができるから。愛されることを体験することで、初めて誰かを愛することができるようになるのと同様に。

 

 

 

ハジメはイズミを傷つけた後に島本さんに傷つけられる点において、この小説はフィクションそのものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし現実世界を生きる我々とフィクションを生きるハジメに共通なものもある。それはつまり、「我々は正しく傷つくことができない」ということである。

 

 

 

そう、これは映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中、家福が溢す台詞でもある。「僕は正しく傷つくべきだった。」

 

 

我々は正しく傷つくことができないから、後に誰かを傷つけてしまう。自分が正しく傷つくために、誰かを傷つけるのである。そうやって自分の人生を物語ることができる。

 

 

 

 

 

 

私は思うのだが、正しく傷つくとは死を意味する、と。おそらく、我々は皆正しく傷つくことができない。これは平等だ。正当防衛。12歳のハジメは、拒まれることを恐れて島本さんのもとへ足を運ぶことを辞めた。有紀子は、自殺を試みるが失敗する。そして彼らのその行為は不完全に自分を傷つけ、そして本人の知らないところで誰かを傷つけてもいる。これはハジメだけが持つ傾向ではなく、人間一般の傾向なのではないだろうか。

 

 

 

「きっと誰にも資格なんていうようなものはないんだから」(『国境の南、太陽の西』、講談社文庫、290ページ)

 

 

 

そう、ハジメは可哀想な人間だ。人間一般の傾向を己だけの傾向だと思っているから。

 

 

 

 

 

 

 

我々がこの現実世界で直観している完全な傷は、フィクションでしか表現できない。イズミや島本さんの傷。

 

 

 

 

この世界はフィクションではない。我々は生きていかなければならない。太陽はあいもかわらず東から昇り西へと沈む。

 

 

 

半分死んでしまった島本さんは、フィクションの産物である。だから我々はこの世界で、「僕は僕の世界を捨て君を取ることはできないけど、CDは大切にしておくね。」と言うしかない。

 

 

 

 

 

ハジメと有紀子は、互いに不完全に傷つき傷つけ合っていく。フィクションではない世界で生きていくためにはそうする他ない。

 

 

 

私たちは自分の記憶を物語化することで生きていくことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちゃんちゃん!連続で小説の感想。

 

 

「なつきさんの底抜けのポップさは狂気だと思います。」と嘆きつつこの小説を渡してくる後輩を持ち、大学生活悔い無し!

 

アフターダーク

世界は広い、という表現よりも世界は沢山ある、という表現の方が正しいと私はよく思う。

 

 

 

 

 

 

そう、世界は沢山ある。なぜなら、人の数だけ世界があるから。

 

 

村上春樹は世界の多さを、善と悪という二種類の世界に例える作家だ。本当はもっと沢山、無限に世界はあるんだけど、分かりやすく二つだけと仮定する。世界は一つではないということを伝えている。

 

 

 

 

 

そして彼はこの二つの世界の境目について語る。

 

 

 

ある場合には、その境目は強く硬いものである。エリにとって、マリとの壁は高く厚い。画面の向こうにいるマリは、此方の世界へ戻ることが不可能のように感じる。

 

 

 

 

 

善の世界にいる人間と悪の世界にいる人間は、というより、人間と人間の境目は、世界と世界の境目は、消えることがない。永遠に存在する。

 

 

 

「他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。」(『回転木馬のデッド・ヒート』、講談社文庫、15ページ)

 

 

我々はどこにも行けない。私は私でしかない。

 

 

 

 

けれどエリは、陰の世界で傷付きながら生きる中国人の少女に親しみを感じる。まるでそこに壁などないように。マリは、ただのクラスメイトだった高橋に個人的な話をばら撒く。境目は曖昧。

 

 

 

「二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそり忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。」(『アフターダーク』、講談社文庫、141ページ)

 

 

 

 

要するに、私たちがそれぞれ持っている世界は一つだけとは限らない。二つの世界を持っている人もいれば、三つの世界を持ってる人もいる。そしてそれらの世界を行き来することは可能なのだ。善の世界と悪の世界の行き来は可能。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちは他人と本質的にわかり合うこと、つまり全く同じ世界を共有することが出来ない。同一の視点を得ることは不可能である。それでも私たちは自分が持っている複数の世界を、その時々でシフトすることにより、目の前にいる相手の世界に寄せることが出来る。

 

 

 

 

 

エリがマリのベッドに入り眠ったとき、エリは自分の持っている世界の中からマリのいる世界と似ているものを選び、その世界に入っていった。マリが画面の向こうから自室に戻ったとき、彼女は懸命に世界を選びシフトさせたのと同様に。

 

これは一種の努力の賜物であると思う。複数の世界を持つこと、そしてそれらをシフトさせることは努力の賜物なのである。

 

 

 

 

白川は、善の世界を持っていたのだろうか?彼は悪の世界しか持っていなかったのかもしれない。一見「普通」の生活を送っている人間が、悪の世界しか持っていないということもあり得る。

 

一方コオロギは、努力していた。懸命に善の世界を模索し、そしてシフトしようとしていた。彼女はあの後、善の世界を獲得するかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、なぜ私たちは他人とわかり合うことが出来ないのだろうか。

 

 

 

それは、記憶と約束を持っているからである。

 

 

「人間ゆうの、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。」(『アフターダーク』、講談社文庫、250ページ)

 

 

自分は自分でしかない、我々はどこにも行けないということ。それはつまり、自分の記憶を持っているということである。自分の記憶が自分の境界を作る。私とは私の記憶である。そして記憶とは、我々が生きていく燃料であり、自分の記憶というものがある限り人間は生きていく。他人と完全に共有されることのない私の記憶によって我々は生かされているのだ。だからこそ、わかり合うことを望んだりする。

 

 

記憶は温度を持つ。あたたかい記憶というものは人を生かす。エリがマリと暗闇の中抱き合ったあたたかい記憶は、エリを生かしてきた。では、冷たい記憶を持つ高橋は?彼はどのように生きていくのか?

 

 

 

 

 

エリに手紙を書くという約束、エリと半年後に会うという約束、これらが彼を生かす。

 

冷たい記憶に囚われている彼は、あたたかい約束を構築する。果たされることが大切なのではなく、約束をつくることが大切なのである。彼はそれだけで生きていける。

 

 

 

私たちは記憶と約束がなくなったときに、無になるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、アフターダークという小説の感想でした。ブログで小説の感想を公開するのは初めてだから、少し緊張しますね。今度、アフターダークについての飲み会があるから、文字に残しておきたかったの。これで上手に話せるはず。

 

 

 

あたたかい記憶と約束はとっても大事だと、思う

 

 

 

 

うさぎ

色んな人の色んな目を見た。目の奥をいつも見たかった。目の奥には意味があると信じてた。何かがあるんだって、私に対してかならずなにかを発信しているって。

 

色んな人の顔を見た。脳裏に焼き付けようとした。顔、顔、顔、顔。焼き付けたかった。思い出したかった。

 

 

 

 

神さまは、人の目の奥には意味を持たせないように、人の顔は忘れちゃうように、この世界を作ったんだってさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年6月29日に書いてたこの文章、レヴィナスと出会うことが必然だったかのように思える。

 

 

私は、正面から見たときの人の顔を思い出すことができない。人の横顔とか、手とか、体については正確に思い出すことができるけど。それがどうしてなのかをよく考えた時期があった、高校生の頃だと思う。人間は、他人の顔を正確に思い出すことができない。そして私なりに考えた結果、それはその人にまた会いたいと思えるためになんだと結論付けた。これは『分からないものは確認せずにはいられない』という私の性格が導き出した個人的な結論に過ぎないかもしれないけど。でも、もしも他人の顔を正確に思い出すことができるのならば、私は誰かに『会いたい』という感情を全く抱かないと思う。それは少し悲しい、から、この結論には満足している。

 

 

 

 

哲学を少し齧った今は、もう少し違う答えを導くこともできるようになった。

 

例えば、他者の横顔や手や体を見るときの私の視線はその他者を支配できているが、正面、つまりこちらを向いている他者は、視線を私に向けているため私の視線で他者を支配することが不可能になる、とか。他者の視線を支配することはできない。

 

 

 

 

 

 

でもこれも、どうして人間は他者の視線を支配できないように設計されているの?と思ってしまうのである。だからやっぱり、『忘れちゃうため』という理由が一番好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人間関係って、結局は『見る側』と『見られる側』に集約されると思うんだよね。」

 

「ふーん。私たちは、どうなの?」

 

「俺が見る側で、あなたが見られる側、でしょ?」

 

「ふーん。」

 

 

このときは、「またフーコーっぽいこと言ってるなー」としか感じなかった。けどこのテーゼの問題点は、視線は交うことができないということにあると、今は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年が明けて、11日が経った。彼氏と母以外の人間とは2回会った。どちらも顔の話をした。殆どそこの記憶しかない。それ以外は特に強く伝えたいと思った発話は無かった気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところで、私は所謂メンヘラでガイジだった。頭がイカれていた。「本当のメンヘラはそんなこと言わない!」確かにそうだ。メンヘラやガイジは客観視が苦手だから。けどさ、客観なんてものは可能なんですか?客観って、何?ちなみに、当時の私は「メンヘラ?きっしょ」とか言ってたと思う。

 

 

 

 

 

メンヘラはメンヘラなりに考えるわけだが、兎に角他者に危害を加えるのは良くない、19歳あたりでそれを強く実感した。遅いんだか早いんだか。そこから1年間ほど記憶がない。かなり頑張って『脱メンヘラ・脱ガイジ』に取り組んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

私はもうメンヘラもガイジも脱することができつつあると思っていたけど、なんかまだ全然ダメだった。というか、すごく気を抜くと出てしまう。もう私は22歳で16歳じゃない。いきなり頭が悪そうな文章を書いてしまった。けど、素面で人を殴ったりしていた頃に比べると少しは健全になったと思う。というより、そうであってほしい。だってもう素面で人を殴らない。自分の脳みそがイカれてて本当に嫌だ。このままだと本当に友達がいなくなるっぽい。それだけ。

 

 

自分の拭えないガイジさを叩きつけられたとき、自分よりガイジな人間に会って安心したくなるんだけれど、こういう時に連絡する人間は私と同じ名前。変な話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日は映画を観た。私が苦手な映画を自発的に観るということは、暇だということ。

 

 

 

 

強迫性緊縛症候群になってしまった女性とその恋人の話。

 

女性に共感し泣いた。映画には大体ストーリーというものが存在するが、そうなると共感も付き纏う、可能性が高くなる。共感する映画は疲れるからあまり好きではない。映画の愚痴は永遠に言えそう。

 

 

 

 

今日フィルマークス覗いてみたら、その映画について「サイコでホラーだけど絵が美しい」と沢山書かれていた。私は共感しないよう努めることに精一杯で、絵の美しさはあまり感じ取ることができなかった。三月のライオンの方が好きだ。

 

 

無意味

彼が私に教えてくれたことは、人間関係において平行はないということだ。平行なんて存在しなくて、必ずどこかでちょぴっとズレてしまう。そして一瞬交わる。スピードも角度も交わりの数だけ異なるから、一瞬で過ぎ消え去る垂直な交わりもあれば、まるで永遠のような交わるもある、のだろう。だけどとにかく、人間は流動的なものだ。だから進む。進む。止まらない。交わったその瞬間に止まることもあるのかもしれないけど、結局進む。だけどたまに、どちらかの将又双方の角度が変わってもう一度交わるなんてこともある。引力とかいうのはそういうことだ。角度もスピードも違うのだから、その交わりはこの世界で唯一無二である。私は彼に何かを教えることが出来たのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひょんなことから三年振りに、昔好きだった人に会った。「好きだった人」という表現が適切なのかは分からないけど、簡単に纏めるとそういうことだと思う。別にもう時間は戻らないし戻って欲しいとも思わない。ただ私たちはいつも何が正しいのか、どうして寂しいのか、よくわからないまま生きてる。似ているところはこれだけだ。そうやっていつの間にか五年が経った。分かりきっていたけど、私たちは深く交わっているように見えて特に何も交わっていなかった。「こうやって意味のない話する感じ、懐かしいなー」って言ってたけど、私にとってそういう話は全て意味のある話だったんだよ。

 

精神的な話

対他のスポーツと対自のスポーツについて。対他のスポーツは言い換えると相手と接触するスポーツだ。柔道、ボクシング、フットボール、バスケ。私は中学生の頃バスケ部に所属していたが、バスケに対してはなぜか苦手意識がある。技術の話ではない。大体いつもスターティングメンバーだったし、副部長も務めた。苦手なのは、それが他人と接触するスポーツであるからだ。対他のスポーツ。一方で、私は水泳が好きだ。小学生の頃、スイミングスクールに通っていた。かなりハードな練習量を求めてくるスクールであったため、正直とても辛かったし、若干10歳前後の少女が経験するべきではないようにも感じた。しかし私は今も水泳というスポーツが好きだ。他には長距離走も好きだ。これらは完全に対自スポーツだと思う。そして卓球も実は対自的なスポーツであると思う。私は卓球も好むが、その所以は戻ってくる球を只管打ち返すという作業が非常に対自的だからだ。卓球も実は対自的なスポーツだと考えられるかもしれない。私がなぜ対他的なスポーツが苦手なのか。これは現在私がレヴィナスに傾倒していることと関係があるのか。対面の関係では相手は貧しい人である。私の根底にある精神性。スポーツの話に戻るが、対自的なスポーツとしてサウナも入るであろう。己を追い込む作業。しかしサウナで己を追い込んだ後に入る水風呂。あれは完全に超越だ。サウナは内在で水風呂は超越。内在のための超越か、超越のための内在か。私は前者である、とあえて言い切ってしまおう。超越主義者。例えばスピノザは、サウナのための水風呂だ、と主張するのだろうか。今の私は何をしてもレヴィナスに結び付けてしまう・・・。

平穏で健康で内省的な生活

今年の夏はすごく穏やかで健やかな生活を送っている。

 

朝の8時頃に起床して、調子が良い日は大学の図書館に行き、あまり良くない日はお家にいる。勉強したり本を読んで、夕方からバイトに行く。その後はまた勉強したり本を読んで眠る。週に1日もしくは2日は休みがあるから、絵や海や映画を見に行き、公園を歩き、美味しいご飯を食べてお酒を飲む。

 

変な薬はもうあまり飲まないし、お酒もバイト含め週に4日くらいしか飲まない。夜更かしもあまりしない。バイト以外で、彼氏と家族以外の人間に会わない。SNSもあまり見ない。そんな感じ。平穏で健康で内省的。

 

考えてるのは、ほとんどレヴィナスバタイユのこと。あとは、絵を見てるときは現象学。お酒を飲んでるときは音楽。海を見てるときは何も考えてないな。水は素晴らしいと思う。街に出たときはニンゲンのことを考える。みんなは何を考えているんだろう。

 

そんな感じ。

 

もうすぐ夏が終わるかもしれない。秋になったら昼間でもお散歩ができる。早く昼間のお散歩がしたい。夏は外に出れなくて悲しいけど、もうすぐで外に出れる。