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村上春樹レヴィナス

 


東洋的世界観と西洋的世界観について。よく言われている自明のことだが、東洋的世界観とは、二つの世界、例えばこの世とあの世、現世と来世、のような二つの世界の境界線が緩やかであることだ。今はちょうどお盆の時期になるが、お盆にはあの世にいる先祖がこの世に戻ってくるらしい。現世にいる私たちはそんな先祖を出迎える。そんなのあり?ありらしい。そんなこんなで、東洋的世界観においては、この世とあの世に断絶はない。一方西洋的世界観はどうだろうか。そもそも、西洋においての二つの世界とは、人間界と天上界、つまりは人間と神の世界である。そしてここにな完全な断絶、超越がある。絶対的な壁。さあここで、人間界、この世について考えてみる。だって私たちは、おそらく、この世を生きているから。この世における、人間たちの在り方。例えば西洋を生きたバタイユは、一致の共同体と対面の共同体とを考えた。前者の共同体においては、神という絶対者に対して我々人間が人間として生きることが可能になる。それゆえ、神という絶対者ありきの共同体。神との一致を、はたまたそのプロセスにおいて共同体との一致を、求める。しかし対面の共同体は異なる。そこではもはや他者が絶対者と同じ次元に生きると考えられる。他者との対面において、我々は絶対者の無限を受け止めるのだ。ここでレヴィナスの「顔」概念を見出せる。では、東洋における他者は、共同体は、この世を生きる人間はどのように考えられるのだろうか。村上春樹は、東洋におけるこの世とあの世の繋がりを物語というシステムを用い我々に追体験させる小説家だ。では、彼は他者に対してもそのような態度を取るのだろうか。自分と他者は、あの世とこの世のように緩やかに行き来が可能な関係であるのだろうか。答えは、イエスでもありノーでもある。彼は人間を家に喩える。一階があり、二階がある。我々はそこで人と関係を結んだり、眠ったり、食事を行う。そして、地下室もある。そこはたまにしか行かず、いわゆる1人になる場所である。ここで村上春樹は、人間にはさらにもう一つの地下室があると言う。ここは、もっともっと暗い、深い、悪の根源であるような場所だ。ここで現世を生きる我々はあの世と通ずることができると、彼は考えている。そして、ここにおいて他者との「共感」が可能になるとも言う。深い暗闇を我々は皆抱えている、もちろん、一生この部屋に辿り着かない人も少なくはないが。この意味において、我々は他者との「共感」(一致かはわかりません)が開かれる。しかし、彼の物語には、他者との根源的な解離が描かれているように思う。例えばこの前公開された「ドライブ・マイ・カー」において、映画の終盤、車内で高槻が家福に長い独白をするシーン。画面いっぱいに映し出される高槻の「顔」。これこそが対面の関係だと思われる。絶対的神が前提とされない世界観である東洋で、他者を絶対的な他者として描いてみせた先駆者が、村上春樹であると思う。