「どんな音楽好きなの?てか、貴方音楽聴いてるイメージないや。」
「音楽好きだけど、普段イヤホンとかしないからねー。ちゃんと世界の音を聞くべきだと思うよ。」
「電車の音とか?」
「そうそう。」
昔、最も信頼している学科の友人が言っていた。こういうことを言うから信頼できると判断したんだと思う。
3週間前くらい、まだ雨が続いてたとき、使ってるイヤホンが壊れた。
「世界の音、聴くかー。」
いつもならすぐに新しいものを買うけど、なぜかその時はこの会話を思い出した。
2週間程度世界の音に耳を傾けた。電車の音とか、鳥の声とか、勿論人間の声も。世界の音がどういう意味を持つのか結局私にはよく分からなかった。彼には世界がどういう風に見えているんだろうか。私はこうやって他人に興味を持つ。『世界がどういう風に見えているんだろうか。』
「なつきは外部からのストレスを感じた時、それよりも強いストレスを自分で自分に与えてそのストレスを回避するって言ってたけど、そこからどうやって立ち直してるの?」
「わかんない。」
そんな会話をしながら、久しぶりに会う友人と飲んでた。最近聴いてる音楽について。私たちは名前が同じで、音楽の趣味も少し合う。
「スピッツの歌詞には、“スマホ”とかそういう特定の時代を表す言葉が無くて、いつの時代にもある普遍的な人間の感情しかないんだ。だから好き。」
「10年後、50年後の日本でも聴かれてるんだろうね。私もスピッツ好きだよ。」
「そうそう!」
結局新しいイヤホンを買って、帰った。
家の隣にある公園は最近整備されてとても綺麗になった。イヤホンで音楽を聴いた。
ベンチにぽつり、1人。
こういうときに聴くものは大体決まっているのだ。決定論。
目の前に彼等はいないのに、いるかのよう。恐らく、私の泣き顔を一番見てきた人だと思う。
こうやって何度も救われてきたんだ、と強く思う。他者との一致を強く求めていた時期に、純粋な音楽だけで一致できることを思い出させてくれた。
私は小学生の頃に金管バンドクラブに4年間所属していた。
若干10歳にして音楽というものの素晴らしさを体感してしまった。そのときの感覚は今と地続きである。最近、その頃のことをよく思い出す。
「海が見える病院で1週間入院したら、流石に汎神論が分かった気がしたよ。」
汎神論というのは、そういう特殊なものではないと思っていた。内在と超越。驚き。
私の中で、汎神論というのはご飯を食べたり眠ったりすることと同じくらい、自然なことである。
「なつきちゃんは自然を撮るのが上手だよね。本当に良い写真撮るね。」
「見たまんまを撮ってるだけだよー。だから対象物を撮るのは下手くそだけど。」
「“見たまんま”がいいんだよ。」
一緒にいるようになって3年が経つけど、まだ彼について知らないことがあったのか、と思う瞬間がある。例えば、私のことをこんなに理解していなかったんだ、とか。
「あれ見て、シンプルに文章上手だなって思ったよ。やっぱ思ったことをそのまま書いた方が良いんだなって。けど、恋人として内容は見たくないから、消して。」
私は高校生の頃から細々とブログを書き続けている。色々なサイトにお世話になってきた。家みたいだ。私はこれまで2回引越しを経験した。ブログの引越しは3回目。もう慣れた。